water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

逃避行・高田の滝[大子町高田]

 2021年8月、男は夏に倦んでいた。

 21年の夏といえば、連日気温33℃を超える暑さという、いま振り返るともはや牧歌的ともいえる季節であったが、それでも当時は耐え難い猛暑に感じられた。ゆれる陽炎を地平の向こうに見つつ、翳る縁側もまた陽炎に包まれていた。その中に横たわりながら、男は夏と孤独に倦んでいた。せめて水。せめて水に当たりたいと、男は向こうの陽炎に足を踏み入れた。それがそもそも間違いだったのか。

 月待の滝へ行くと、カップルとおぼしき若い男女が楽しげに写真を撮っていた。

汗だくのシャツでいつまでも写真撮るつもりだっけ? それはずるいですよね

 「ここは… ここも、もうだめだ」

 男はつぶやくと、逃げるように立ち去った。いや、立ち去るように逃げた。どこにも居場所なんてないのか。「そうだ、高田の滝高田の滝へ行こう。森のよどんだ空気、まとわりつくクモの巣、湿った木屑と葉と獣の臭い…」男の向かうべきが高田の滝なのは明らかだった。

 

高田の滝ィ~!

 そんなわけで~! 高田の滝にやってきちゃいました~!

 キャー! 超地味! これじゃカメラ女子なんか来てくれないよぉ…。

 黒くじっとりとした岩肌… 県北部ではよく見かけるような気がするが火山角礫岩なのか? 分類がよく分からない。この日は日没にはまだ早いものの、周囲の森によって滝の上しか空が覗けず太陽の光はすでに入り込まなくなっていたため、余計に薄暗い写真となった。そのうえ水量も少なく地味な印象に輪をかけている。いや、これでいいのだが、カメラ女子なんぞ来なくていいのだが、もう少し滝としての彩りが欲しい。そこで以前の写真。

高田の滝(2010年)

 ひぃやぁ、美しいですね。大雨の後は轟々と水が流れ落ち様相が一変するそうなのだが、何とも優雅な白水の線。写真奥から数えて三段ほどの段瀑+渓流瀑になろうかと思われるが、落差は40mとも50mともいわれる。袋田の滝が落差120mだから、もしかすると県内で2番目の高さを誇るのではないか(北茨城市の七ツ滝が約60mなのでそちらの方が勝るか)。そして袋田の滝よりも美しい。圧倒的に美しい。県内随一の美瀑といっていいのではないだろうか。

高田の滝(2010年)

高田の滝(2010年)

高田の滝(2010年)

高田の滝(2010年)

 写真をご覧いただくと分かるように、21年と10年の滝の様相がかなり違っている。まあ10年以上たつわけだから様相が一変するなんてままあることなのだけど、10年のころは滝左岸が地元の有志によってか地主の方か、きれいに整備されている様子がうかがえる。確か滝の2段目くらいまではアプローチできたのではないかとうっすら記憶しているが、ここに14年の写真を補助線として置く。

高田の滝(2014年)

 

 土砂崩れがいつ起きたのかは定かではないが、滝の下部が岩や木片などで埋め尽くされているのがわかる。写真を見比べると、滝上部の右岸側がごっそり崩落しているようにも見える。訪れた際には滝の大きな変容にショックを受けたが、これ以後滝自体へのアプローチに困難さが伴うようになる。

 もともとこの滝は落ち口のところで左へとカーブしており、崩落でそこが埋まってしまった後、溜まりが発生してしまった。滝身を十分に写真に収めるには滝を少し登る必要があるが、その溜まりの発生と地形の変化によって以前は適当なところからちょっと滝を横切るくらいだったのが、今では文字通り滝をよじ登らないとうまいスペースにたどり着けなくなってしまったのだ。

 とはいえそんな高い登攀技術が必要なわけではなく、濡れてもいい格好と長靴があれば十分だろう。しかし岩肌が滑るので安全確保はしなくてはいけない。

 また、道中の様子はインターネットの他のサイトに詳しいので省くが、茨城と福島の県境付近から個人宅の裏庭をお邪魔するような格好で山へ入っていく。山道はそれほど危険な箇所はないと思うけれど、冒頭で書いた通り、森のよどんだ空気、まとわりつくクモの巣、湿った木屑と葉と獣の臭い…といった雰囲気が漂う。虫よけやイノシシよけ、下手をすればクマよけの鈴もあった方がいいかもしれない。茨城もクマと共生する時代がすぐそこまで来ているのかもしれないのだから。

 そんな、深山の趣をたっぷりと味わえる高田の滝袋田の滝よりも月待の滝よりも断然おすすめです。一緒に行ってくれる女の子がいないとしても、おすすめです。もしいたら、いたとしたら… 

 「ここももうじき、だめになるな」男はつぶやく。

 

 
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 「君たちはどう生きるか」観ました。

 ジブリ作品にそれほど思い入れがあるわけではないのですが、今作は冒険ファンタジーになると聞いて、宮崎駿監督のナウシカ2を待ちに待っている自分としては観に行かなくてはならないなと、初めて映画館でジブリ作品を観ました。

 結果的にはナウシカ2ではなかったのですが、そして面白いかと言われると微妙なところではあるのですが、すごいものを観た。というのが感想でした。

 この作品は、母久子を失った眞人がどう生きるか、何を立脚点として現実に生きるかを、眞人の心象風景を現実に浸食させるかたちで描いたと解釈しています。母久子は眞人の世界の中ではヒミという少女として描かれますが、その形での母親との再会は感動的です。ヒミがギリギリのところで眞人を自分の世界に帰し、自分も別の扉から帰そうとする時に、眞人はのちの母親の運命を知っているので引き留めるのですが、何の迷いも逡巡もなく「眞人を産めるなんてすばらしいじゃないか」と言うところで、この物語が愛と祝福を描いたものであることを確信しました。それを知ることで、眞人は自分がどう生きるかの立脚点をつかむことができたのではないかと思います。また、それをつかむために、「下の世界」を通り抜けることが必要だったのでしょう。

 当初、この作品のタイトルが説教臭く響き、また実際に劇中で宮崎駿監督に説教されるのではないかと思い観ないと言う人が多かったという話を聞きましたが、君たちはどう生きる「べき」か、というよりも、眞人がどのように自分なりの物語を立ち上げるのかが生きていく上で重要だったように、もしこのタイトルが私たちに何かを問いかけているとすれば、君たちはどう生き「てい」るか。を知るために、私たち自身の物語が問われているのではないでしょうか。岡田斗司夫は今作を宮崎監督が「エンターテインメントからアートに逃げやがった笑」とくさしていますが、物語をエンターテインメントの枠に収めて観客を魅了するという職人にとって重要なくさびを抜いてまで自由闊達な「物語」を描こうとした宮崎駿監督の意図は、そこで語られていることの意味が重要なのではなく、どう語る、表現するのかによって自らを理解するという「脱物語」であるように思われます。

 そしてそれは、あくまで僕個人にとっては、庵野秀明監督のエヴァンゲリオンに対する回答なのだと改めて思い知ったのでした。エヴァもやはり愛と祝福を描いた作品だったことを実感しダブルパンチを受けて泣いてしまったのを、米津玄師が優しく歌い上げて包み込んできましたが、俺は米津の歌に感動して泣いているのではないと必死に落涙を我慢したのでした。