water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

シン・エヴァンゲリオン2回目の感想

ネタバレあり。全くまとめられないので箇条書きのまま。

 

 

 

・いっそ10年目の3月11日にTVで放映してしまった方がいいんじゃないかと思えるほど、見事に死と再生を描き切った。

エヴァンゲリオンがゲンドウの物語であることにどうして気づかなかったんだろう。そこに気づくことが14年という歳月なのかもしれない。たとえば子をもうけた親の視点で見れば、どうしたってゲンドウの視点を無視することはできないだろう。そして、ゲンドウが決して癒されない孤独と悲しみを抱えていることが、今なら説明不要なほどにすんなり理解できていることにも気づく。

・シンジがLASにもLRSにもならないのは必然、それこそが救いでもある。運命を仕組まれた子供たちの混然と溶け合った縁をそれぞれ切り離すことで彼らを補完し、人間としての自立が成ったから(後述)。

・とにかくマリが素晴らしい。マリに救われたといってもいい。とはいえ、漫画版でユイを思慕する設定はどうやらシンでもある程度は継承されているようで(ガイウスの槍のくだり)、またアスカとマリのやり取り(「シンジに必要なのは恋人ではなく母親」)からも示唆されている通り、マリはシンジに対してユイを透かしての思いを持っているとなると、マリに母性的な要素が投影されていることになる。その点はフェミニズム界隈からの批判が来そうな気がしているが…(後述)

・あまりくっつくくっつかないという議論に横ロンギヌスするつもりはないけど、LAS、LRS(そんな言葉があるのも初めて知った)はあり得ない。
「運命を仕組まれた子供」であるエヴァパイロットたちは皆シンジに好意を寄せるように調整されており、それがすなわち「エヴァの呪縛」と同義であるから。
アスカの「私が先に大人になっちゃった」というセリフはケンスケと同衾したということではなく(それを否定するわけでもないがあまり関係ない)、
自らを統御しているその仕組みにメタ視点で気づいてしまったことを指しているだろう(つまるところ、ああだから彼/彼女のことが好きだったんだ、というのに気づくというやつ)。
シンジ自らがその「縁」を断ち切り、エヴァの無い世界を創生することで彼らの補完を達成しようとする直前で、初号機の中にいたユイがゲンドウとともに身代わりになりネオンジェネシス実現。
こうなることまで予測して初号機に収まっていたとなれば、母の愛は偉大であるというしかない。この物語はユイとゲンドウが全ての始まりなので、ちゃんと物語に対して、息子に対して落とし前をつけたことが素晴らしい。まさに「父に、ありがとう 母に、さようなら そして、全ての子供達<チルドレン>に おめでとう」だ。
で問題のマリだが、この解釈が難しい。
いろいろ指摘されているように、彼女にはシンジに対して母性愛が負託されているようにどうしても思えてしまう。
そうなると女性に母性を投影することへのフェミニズム界隈からの批判が殺到しそうでもあるが…
彼女もおそらくクローンだろうし「エヴァの呪縛」も受けているはず(外形的な変化がない)なのだが、補完のシーンには出てこない。ということは「仕組まれ」てはいない?
実は考え方が逆で、宇部新川駅(のある世界)からマリがシンジを迎えに来た。というだけなのかもしれない。
この物語にマリが差し挟まれた理由は、本当にそれ以上でも以下でもないかもしれない。その何の理由もないというところに、他者とかかわることの本当の救いがあるのかも。
LASにしろLRSにしろ、それでは「縁」の円環の中で閉じて、世界がまたループしてしまうので、これでよかった。
アスカがシンジに好きだったと言ってもらえて、それで顔が赤面して、あれでシンジなりに救えただろうし、アスカも救われたと思う。あの場面でアスカは肉体(フィジカル)だけ28歳に戻り、精神(メンタル)は14歳のまま。そのギャップをシンジが告白することで補完してあげられたのだと思う(4部作の主題歌はゲンドウの主観という意見があり慧眼だと思ったが、「One Last Kiss」の「忘れられない人」はアスカにおけるシンジだという解釈を取りたい)。旧劇の「まごころを、君に」というタイトルが形を変えて今こうしてふたたび実を結んだのだ。本当によかった。

僕らはたぶん、僕らなりの「忘れられない人」に「僕"も"好きだった」と告げることはもうできない。もしもそれができたとしたら、それは僕らが1●歳のままずっと抱えてきたひとつの可能性が永久に消えてしまうことになる。でもそれはたぶん必要なことだ。それはたぶん幸せなことなんだろう。

「もしもう一度会えることがあったら、●年前に言えなかった言葉を言うよ」

・ラストシーンの宇部新川駅は言うまでもなく庵野監督の地元だが、これはエヴァ私小説的な作品であることをあからさまに明かしているばかりでなく、エヴァがまさしく自分のルーツに根差していること、それはすなわち全ての人、特に若い人たちそれぞれの物語=生を明らかにし、そのかけがえのなさを示唆する。それは作品というフォーマットの持つある意味当たり前で凡庸な帰結でもあると思うのだが、そこに至るまでのプロセスを真正面から描き切ったこの作品が祝福に満ちていることは疑いようもない。それは同時に旧劇場版「Airまごころを、君に」がまごうことなき名作であったことを同時に証明もしており(そう、序破Qシンは「Rebuild」にすぎない)、それもとてもうれしく思う。というのは最初の感想に書いたっけ?

世界線を書き換えるというモチーフは今やいろんな作品にあるのだろうが、僕が知る中では「輪るピングドラム」が挙げられるだろう。あの2人の兄弟の自己犠牲同様、シンジも自らの存在を世界の因果から外すことで補完を成し遂げようとしたが、親の愛によってシンジの存在はあり続けた。「新世紀エヴァンゲリオン」が95年に開始し東日本大震災を経て現在に至ったのに対し「輪るピングドラム」も95年の阪神大震災オウム事件が物語の大きなコアとなっている。

 ・パンフレットを読んでからあらためて観ると、ヒカリのセリフ全部、泣かずにはいられない。これはずるいですよ岩男潤子さん。「今が一番若いんだから」というのは、もう少しだけ僕が若い時に聞いてみたかった。とはいえ僕も今が一番若いのは確かなのだが。

 ・ラストシーンでマリが差し出した手を取りシンジが「行こう」と言った後にマリが一瞬とまどうカットがあるが、おそらくマリが考えたのと少し違う方向へシンジは足を踏み出したのだろう。ここにもシンジの成熟の跡がみられる。そのカットの後でためらうことなくシンジとともに駆け出すマリの姿に、少し救いの形が表れている。駅で無邪気に走り回っている20代後半の男女を見ても、優しい目で許してあげてほしい。