water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

上人の水[佐野市作原町]☆☆☆☆

 前回ご紹介した出流原弁天池では、水を汲むことができなかった。しかし案ずることはない、佐野市には他に湧き水スポットがあることを、グーグルマップで突き止めていたのだ。

 グーグルマップに記載されているということは、そこそこ名の知れた湧き水に他ならない。こんな山中に湧いているなんていったいどんな水だろう…。否が応にも期待は高まるというもの。つまり今回の水旅は、出流原弁天池と上人の水の"ワイド水券"で勝負ということになる。何ですかそれは。出流原弁天池では汲めなかったが、まだ上人の水で巻き返しのチャンスがあるということだ。この場合の軸はどうするべきか。佐野市といえば言うまでもなく、佐野ラーメンの本場である。

 悩みに悩んだ結果、今回は「ゐをり」を軸とした。


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 この「ゐをり」というお店、そんなに佐野ラーメンしていないのが良いと思ったが(個人的に佐野ラーメンはそれほど好きでもない)、何より全てのメニューで半ラーメン可能というのがありがたい。今日びラーメン屋といえばだいたいご飯ものがサイドメニューにあるが、食べたくてもラーメンとセットにすると量的に食べるのが厳しいという事情がある。半ラーメンにできるなら気軽にチャーシュー丼を合わせて頼むことができ、非常にカスタマーサービスが充実している。店内も洋食屋、カフェーのようで女性も入りやすいのである。おすすめ。

 

 「ゐをり」をワイド水券の軸としたのは正解だった。腹ごしらえを終えたらいよいよ水汲みである。上人の水までは北北西の方角に約30キロ弱といったところ。スープまでしっかり飲み干した脂っこい口を豪快にすすぐのも食後の水汲みの楽しみだ。げふ。

 しばらくは佐野市内の繁華街を抜け、道の駅「どまんなかたぬま」方面に曲がれば後は北上するのみ。いよいよ山が眼前に迫ってきたころちょいと左に入れば、田園風景の中の細い道路を山の奥へと分け入っていく。とは言っても綺麗に舗装された片側一車線なので少し拍子抜けするくらい順調、しかも似たような景色がわりとだらだらという感じで続くので、ドライブは平凡かつ単調である。したがってのちに林道作原沢入線と接続する一般県道201号作原田沼線の行程はかなり長いという印象がある。道がガイドとしている旗川は水深が浅そうで流れも清らか、美しい。

 林道牛の沢出原線(通行止め)と分岐する辺りで県道が林道へと変わり片側一車線の道がさらに細くなるといよいよ周囲も山で空が隠れてくるが、それでも道沿いには民家が点在する。道は途中で旗川から逸れ支流の方に入っていくが、その大戸川が美しい渓谷の相を出してくれば湧き水まではほど近い。

 

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 果たして上人の水は林道の法面から湧き出していた。うん、想像よりわりと殺風景だけど、なかなか悪くない。何より広いので汲みやすそうだ。ワイド水券、これは的中と言っていいんじゃないですか?

 水は清らか、もちろんごみの混入などはない。掲示板には「『殺菌消毒等の処理を行っていない生水』です。飲料等による事故の責任は負いません」と書かれているが、そんなもの太陽が東から昇って西に沈むがごとく、幸せは雲のうえに、悲しみは月のかげにあるがごとく当然であり、いちいち文句をつけるような莫迦がいるとも思えない。問題は、写真にこそ収めなかったが湧き水の反対側つまり渓流側に張り巡らされたバリケードのような金網と夥しい数の立て看板で、ごみを捨てないよう警告がびっしり書かれていた。呆れたものだ…わざわざこんな山奥まで来て美しい渓流にごみを捨てる莫迦がいるなんて。湧き水は人心を惑わせるのか。たぶん何も考えていないんだろう。というか、何も考えなくてよかった時代の人の所業かもしれない。ごみを捨てるのは人間のエゴかもしれないが、貝塚を想起するまでもなく本質的な営みでもあるからだ。じゃあしょうがない

 (ちなみに私は、と言っても碌な考えがあって言うわけでもないですが、レジ袋の有料化およびそれに伴うプラごみの削減には懐疑的であります。それならば店のプロダクツからお中元お歳暮に至るまであらゆる種類の包装が簡易化されるのと同時でなければ片手落ち、欺瞞に他ならない。この間セイコーマートに行ったらレジ袋無料を継続しているというので感動してしまった。店の開いている時間帯が自分と合わないのでしばらく行っていなかったのだが、相変わらず総菜は豊富でパスタも安くてうまいしワインも安いのでちょくちょく行こうと思う)

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 さて、せっかくなのでもう少し奥まで進んでみた。この先、しばらく前から通行止めになっているという話だったので、現在どうなっているのか見てみたかったのだ。でもやはり通行止めのままだった。

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 佐野市のホームページに詳細が記載されている(https://www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/sangyou/nosansonshinkoka/oshirase/15526.html)が、かなり規模の大きな土砂崩れがあったようで、復旧が待たれる。というのも、通行止めの先にも湧き水があるからなのだ。(参考)

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 知らずに進入したのだが、この先には「蓬莱山」という景勝地があるのだった。険しく切り立った崖に阻まれる小さな峰は、まるで仙人がねぐらとしていそうな幽玄の趣がある。佐野市のホームページでは「日本三蓬莱」のひとつであり、この一帯が日光開山の祖として名高い勝道上人によって開かれた霊場であるとのこと。何を隠そう今回ご紹介の「上人の水」の名もここから取られたもの。なるほど、この作原田沼線も古の道であるかもしれないと思えば、先ほど平凡かつ単調と述べたその変化の乏しさこそまさに歴史の悠久たる流れに比定されるだろう。刮目してドライヴせよ。

 このさらに奥には宝生水や数々の滝、そして周囲を囲む山々を歩くこともできるようだ。返す返すも林道が早く復旧してもらいたいものである。

('21.04訪問)

 

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 グレイプバインの新譜「新しい果実」はそろそろ日本国中全ての世帯に行きわたったころでしょうか。行きわたったものとして話を進めていきますね。今作は否が応にも新型コロナ禍の影響を受けて2年ぶりのリリースとなったが、その影響は歌詞にもっとも強く出ていると思う。「目覚ましはいつも鳴りやまない」を聴けば顕著だけれど、今作は人々の日々の暮らし、営みにかなり意識を寄せていることが感じられる。それがコロナ禍の影響、と言うと牽強付会に過ぎるのかもしれないが、コロナ禍を機にこの社会がいかなるものであったかを改めて考えることは人それぞれ大なり小なりあっただろうけれど、コロナ禍を境に「変わってしまったもの」の多さとともに、意外と変わっていないことに気づかされる場面もあったのではないか、グレイプバインはむしろその変わらなさを掬い上げて歌にまとめている。変わってしまったもののしんどさよりも、変わらないものを見つめる方がよっぽどしんどかったりする。それが私たちの日々の暮らしそのものかもしれない。そのことを端的に表現している一曲に少し焦点を当ててみたい。

 アルバムの4曲目「居眠り」。作曲はドラムの亀井さんで、彼の楽曲特有の"亀メロ"の美しさが凝縮された、抒情性に満ちつつも無駄のない構成になっており、そこに乗せられた歌詞は簡単に分けると「夫」と「妻」のそれぞれの視点から構成される。両者とも生活の中で居眠りをし、そのまどろみの中で夢とも追憶とも知れぬ配偶者と子供の姿を見るという"よくある話"、シチュエーションではある。夫は電車の中で、妻はおそらく午後の昼寝の時間に、だろうか。ここでの居眠りが「悲しい顔」「泣く子供」という言葉に代表されるように何らかの悲しみや悔恨を背負ってのものであることと、まどろみが見せる配偶者と子供の姿が現在のものなのか、あるいは否か、が微妙にはぐらかされているというところから、突然にその家族の関係性に疑義が生じる。歌詞としては明示されていないため、夫や妻あるいは子供を含めてもよいが、彼らの立場にグラデーションが生じる。いろんな解釈が可能である。「悲しい顔封印したら駅を出て家まで歩こう」その家に明かりはついているか、「優しい顔用意したら買い物へ」出て何人分の食糧を買うのか、その解釈は聴く側に任されている。家族のグラデーションが、社会の人々のそれぞれの暮らしの連なりとしてパッと町へ広がっていく様子がここから感じ取れないだろうか。もしも彼らの暮らしが悲しみと悔恨に満ちているとしたら、一体どうすればよいのか。それはね、なんてことはグレイプバインが歌わないことはだいたい中学校あたりで習ったと思うが、グレイプバインは答えを明示しないかわりに、"両義性"を提示する。具体的には夫の側の歌詞と妻の側の歌詞を融合させることで、そこで紡がれた悲しみと悔恨に満ちたはずの言葉が、別の新しい面を描写する言葉に変わる。これがグレイプバインお得意の手法であり、彼らなりの"かなしみを明日に変えてゆく"(「風の歌」)作法なのだ。何かを強く決意することなく悲しみはやり過ごすだけでも、淡々と日々を紡いでいく私たちの暮らしを丁寧に描出した「居眠り」は、だからこそかえって優しさとほほえみをたたえているのである。こうした営為はコロナ禍によって変えられたものだろうか? むしろコロナ禍があったからこそ改めて実感しうるものであったかもしれない。ひとつ確かなことは、水汲みにはコロナ禍は何ひとつ影響しなかったということだ。今日も新譜「新しい果実」を聴きながら、私は水場へ向かう。ラストトラックの「最期にして至上の時」では、今までのグレイプバインでは味わったことのないような全方位的に耳を身を包む音のクラスターに洗われ、まだその境地はいささか早くないですか田中さん? 「世界が変わるにつれて」でも思いましたけど。と、いずれ訪れるであろう、いや訪れたら幸甚の極みたるその瞬間に思いを馳せる。「祈りの向こう めぐり逢えると」その時確信できたとしたら、それはまさに"最期にして至上の時"なのではないか。