water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

シン・エヴァンゲリオン初見の感想

 エヴァンゲリオンが終った。1995年10月4日にテレビ東京で開始されたこのアニメを僕は第13話「使徒、侵入」から観始めたので、放映日の12月27日から数えれば26回目の春を迎えることになる。僕にとっての25年が何だったか?についての散文になる。中身は無いがネタバレだけはあるので…

 

 

 

 

 

 

 鈴原トウジの顔が表れた瞬間に、ああこれはある意味でもっとも観たくないエヴァンゲリオンだと悟った。14年の歳月を経て大人になった友人と、何も変わっていないシンジ。これはまるで自分のことだと。だが同時にエヴァを終らすにはこれしかないとも思う。エヴァンゲリオンが古典的消費の完成を確立してしまう直前に、そうサザエさんドラえもんクレヨンしんちゃんを挙げるまでもなく、時間の不可逆性を描出してしまえばいい。時計の針は元には戻らないのだ。

 しかし前述のように、この演出は「僕の14年間」との直接的な対峙ともなった。端的に言えば、この14年いや25年、僕は何ひとつとして自分のことにけじめをつけることができなかった。

 なので僕にとってこの作品が面白かったか?と問われるとき、口を濁さずにはいられない。面白いか面白くないかと言われれば、断然前者ではある。ただ、自分にはこの作品を観る、観て何かを思う資格が無いのではないか、と思うのだ。何ということだろう。25年もエヴァと時間を共にして、今はただそんなことしか思うことができないのだ。僕はこの作品にもまた、けじめをつけることができないのではないか。

 ただ、よかった、とは思う。そして旧劇場版がまごうことなき名/迷/明作であることもこれではっきりと証明されたのではないかというのが、うれしい。

 

 第三の村でソックリさんがさまざまな事物に触れ新鮮な感動を覚えていくシーンは、映画「この世界の片隅に」を観ているような錯覚に陥ったが、普通の日常を営んでいくこととそのかけがえのなさという価値は言うまでもなく東日本大震災以降ぐっと高まった。シン・エヴァは最後の最後に古典化することを拒絶した、と見立てることができると思うものの、この第三の村の描写が後年どのように評価されていくか(まさにこのテン年代から20年代にかけての時代の記録/記憶でもある)、注目せざるを得ない部分ではある。

 

 Qの主題歌である「桜流し」の主観が誰なのか、ずっと今一つわかっていなかった。「あなた」はアスカから見たシンジではないか、少なくともそうみるのは可能だと思っていたが、その主観はミサトであることが判明した。序・破の主題歌「Beautifl World」の主観もミサトであると読めるし(これは最後の最後でマリであるとすることもできるだろう)、ラミエル戦でミサトがシンジの手を握った(あれだけでもうお腹いっぱいだったな)のが新エヴァにとって大きな意味を持っていたし、「残酷な天使のテーゼ」は子供を持ちながらその母性を秘匿せざるを得なかったミサトそのものの歌となったし、通底してエヴァの裏主人公として結局は最後までシンジを守り抜いた(第三の村シーンでも相当我慢したがシンジをかばって被弾するシーンでは旧劇との共通性に落涙をこらえきれなかった)ミサトの存在があったのだと改めて認識させられた。

 でもじゃあ「One Last Kiss」の主観は誰?となると、これはもうアスカしかないんだけど… ミサトの「大人のキスよ」をもってこれを重ねることはできないだろう。

(追記)アスカとケンスケがくっつくことについてネット上では早くも絶望と怨嗟の声が猛々しいが、「肉体関係がある」かどうかよりも、後出するコバヤシさんのブログに詳しいがケンスケという人間がマージナルな存在であること、それによりアスカやシンジに対してもシンパシーをもって接していることに注目すべきだろう。だからこそケンスケはアスカの孤独を理解し、寄り添ってあげることができた。中身は大人でもおっぱいは14歳の、しかしそれにいい齢の男が何を思うかはエヴァンゲリオンの永遠の秘密として太陽が消え去ったマイナス宇宙に放り出せ。無言でタオルを差し出せばいい。ただ気になるのは、終盤アスカのモノローグ内に登場するケンスケの姿。彼はこの時着ぐるみをつけて現れているがこの演出は何を意味するだろう。アスカの内面世界に舞台装置のひとつとして入り込んだことの表現なのかもしれないが、そもそもあの舞台は誰が用意したものか? そして着ぐるみを着ているということは、誰かがケンスケに演者の要請をしたということにならないか? つまりシンジが、あまりに同じ苦悩を抱えた、がゆえに14歳の自分ではどうすることもできないと悟ったシンジが、ケンスケにアスカを託すことにしたのだ。このことは「One Last Kiss」につながり、「忘れられない人」のリフレインはやはりアスカのものであると思うのだ。ただこれも独りむなしい男の性というべきか、たとえば初恋の女の子をいつまでも想うような、はかない希望に過ぎないかもしれないが、そういう背景を想像しながら聴くとこの曲は本当に人生がどうにもならない悲しみをたたえたものであることをまざまざと思い出させてくれる。それは忘れたくないこと、とは真逆のことかもしれないが。

(追記)序~シンの4部作にわたる主題歌はゲンドウの主観だったか。これは見誤った。

 

 ゲンドウのモノローグとその後に続く"親子ゲンカ"のシーンは、冗長であることは否めない。それまでも似たような冗長さや説明過多な部分はあったが、そもそもそういうものを一切省いてソリッドに仕上げた(出来上がってしまった)のが旧劇だったわけなので、後に残すような謎を取り除く意味で必然的ではあるだろう。旧劇ではシンジに対する謝罪→初号機に食われるに至っても多少小馬鹿にするような態度がずっと気にかかっていたので、今回の処理は納得のいくものだった。そして立木文彦さんの鼻がよく通った声の状態で再びのエンディングを観ることができたのがとてもうれしい。

 

 最後にいささか強引とはいえナウシカ原作との類似点がいくつか挙げられることを指摘しておきたい。まずはヴンダーのそもそもの目的が地球上のあらゆる動植物の種を保存しておく保管庫のようなものである(うろ覚え)という設定、これはナウシカにおけるシュワの墓所近くの庭園に他ならない。またネルフ本部は上下逆転したピラミッド状であり、正転すればシュワの墓所である。そこでは魂を持たないが主人の命令には忠実に従うキメラ=綾波レイの存在があった。だがその綾波レイは周囲との人々とのかかわりの中で自我を芽生えさせ、その過程で自らが「調整」されている、すなわち人工的に造られ操作された生命体であることを知る。しかし「それでもいい」と綾波は言う。これはナウシカにおいても、ナウシカの時代の生命は地上を浄化するために造られたり、また汚染された環境に適合するように造りかえられたりしている。しかしその純粋さや清浄が問題なのではなく、生命がいまを生きようとしていることそれ自体が価値のあることなのだ、という考え方に至るのと同じだろう。

 

 まとまらぬまま書き連ねたが、上映初日にしてすでに素晴らしい論考を書いている方がたくさんいる(たとえばツイッターで見たコバヤシさんという方のブログ→「熱の赴くままにぶっ叩いた」とのことだけど、ほとんど他に言及する必要を感じないほど網羅的。こういう感想が上映直後にすぐ高い精度で言語化されるということは、すでに主題が内面化されていたということだろう)

lastbreath.hatenablog.com

ので、ひとしきり上映を楽しんだ後は、そちらを巡回して最後の余韻に浸るのもよいだろう。僕はこれで「区切りがついた」とか「青春が終った」と言っている人が心底うらやましい。僕のこの人生の不全は、エヴァとは関係ないところでいまだくすぶり続けている。

 シン・エヴァはある意味では非常に無難で凡庸なテーマへと着地した。人間の成長と人との縁の連環。25年という歳月は東日本大震災という中断/亀裂を挟みながらも、だからこそかえってその物語の強度を高めた。はずだ。僕はその連環から外れた場所にいる。

  旧劇の中ですでに答えは示されている。「ただ当たり前のことに何度も気づくだけなんだ。自分が自分でいるために」

 長い人生において幾つもそういう場面に立ち会うであろうことが示唆されている。僕にそれがあったか? 僕はそれを見つけようとしただろうか? 僕は旧劇のシン・エヴァのシンジのように隅っこでうずくまっていただけでは? いやそうとしか考えられない、いや、というか端的にそうだった。

 何ということだろう、この25年間、僕とエヴァのシンクロ率は0%だった。