water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

湧水に対し、人は闖入者である(富士山下の湧水)[常陸太田市上深荻町]

 今年はなかなか雨の降る日が多く、水汲みにはあいにくの天気続きですが、いかがお汲みでしょうか。先日そんな梅雨の晴れ間に水を汲みに行きましたところ、いささか看過し難い事態が進行していた模様ですのでご報告したいと思いますがところは。

 

 久々に常陸太田市の「富士山下の湧水」に行ってみると、真新しい看板が立てられていました。詳細は画像をご覧になるかもしくは現地でご確認いただきたいが、水汲みの際の注意点について言及がなされています。

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 こちらを読んで気づいたことが4つ。

 まず1つは、付近の集落の方々が「負担金を出し合」っていること。確かに水場は非常にきれいに整備されていて、水汲みにはほぼ理想的な環境になっています。考えてみれば明らかですが誰かがきちんと管理していなければこうはいかない。それが付近の集落の方だというのはごく自然な話ではあります。しかし共益費の形で各戸お金を出し合っていたとは気づかなんだ。

 2つはそこから演繹的に導き出される、あ。この水は集落共同の所有物なんだ。ということ。市教育委員会のHPで紹介されていたり、現地の案内板を見たりなどするにつけ気軽な来訪者としてその気分をほしいままにしていたが、至極当たり前の話でこの水は昔からここに湧き出し付近の住民の喉をうるおしてきた。そしてこれは全ての湧き水にも言えることで、そこに暮らす人々と生活を共にしてきた存在なのです。

 そして3つ、この看板が立てられた背景に、おそらく以前よりも訪問者が増え、それに伴いマナーの悪さが目立ってきている。ということ。

 最後の4つは些細なことですが、もしかして、いやあり得ないとは思いますが、拙ブログがまさかそれ(訪問者増とそれに伴うマナー悪化)に加担してしまっているのでは…? ということ。このブログで紹介してから、この湧き水を訪問する人をちらほら見掛けるようになりました(当たり前だ、自分が行くようになったんだから)。これまではオッ、ブログを見て訪れる奇特な方もあったもんじゃろか、と内心ちょっとうれしさを感じもしていたのだが、かえって地元の人が目をひそめるような事態の片棒を担ぐような真似を、自分がしてしまっているとしたら。

 そこまでの影響をこのブログが持っているとは到底思えないのですが、一般論としてはあり得る。仮にそうであれば、気ままにのほほんと各地の湧き水を紹介してきたけれど、無自覚なままメディアの功罪を体現してしまっていることになり、無責任に新たな湧き水を紹介するのもためらわれる心地がしています。

 そして、何よりも自分自身が、地元の方への配慮を全く欠いていたのではないか。ということ、今さらながら自分がこの視点を欠落していたことに愕然としました。そもそも看板は自分に向けて立てられたのではないか。

 ですので水を汲む皆様にお願いです。なんてことは一切言うはずもなく、改めて自分は水汲みに対して気を引き締めねばならない、と決意を新たにしました。これまで、あまりのゴミの多さに管理者が憤慨し厳しい警句と共に看板を立てたり(高萩市森滝自噴水)、あまりのゴミの多さに水場を閉鎖してしまったり(福島・須賀川市の殿様清水)、一部の人間の身勝手さによって豊かな水資源が制限を受けなければならない事態が多く発生しています。自分がその清い流れを淀ませてはならない。自分は正義の代弁者・代理執行者なのではなく、悪の体現者、自然(静的な調和)に対しての悪ゆえに制限・足枷をはめられる側だということにもっと自覚的でなければなりません。湧き水に対して自分は闖入者に過ぎないのだ。という気持ちを忘れ、のほほんと水を汲んでいたがための懲罰、水の神ウンディーネの手厳しい打擲が首筋に当てられた。そんな気持ちで一層水汲みへの真摯さを問い詰めてまいりたいと誓う所存であります。

 参院選が近いからなのか、演説めいた微妙な怪文マニフェストが垂れ流しになってしまいましたが、根本は互いに気持ちよく、ゆずり合いを大事にしていこうよ? そんなにタンクいっぱい持ってきて汲むなよ? ただだからって欲張るなよ? 所構わず立ちションすんなよ? という基本をしっかり考え直していきたいと思いました。

 

 看板には水質検査の成分分析結果票が取り付けられていました。現地でご確認いただきたいが、非常に清涼な水であることが分析結果からも明らかです。地元の方への配慮と感謝を忘れず、楽しい湧水めぐりを!

(湧き水管理者の方へ:ブログ掲載に関して何か不都合がありましたらご連絡ください)

 

f:id:water_sky:20190715165221j:plain水場は爽やかな風が吹き抜け、湧き出た水に光が反射してコンクリートの壁面にゆらめいている

 

2019.07 10.7L/min.(4Lを約22.5秒で満たした)

 

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 セラニポージという音楽ユニットを知っていますか? 知らないよね。僕も知らなかったし、今もよく知らない。「Octopus daughter」という曲が良いな、というくらいでしかなかったが、たまたま「EVE」という曲を聴いて久々にその世界観にとらわれてしまった。"EVE"という不死のロボットが完成するのだが、それがまさに世界が終末を迎える日。完成させた"ADAM"に口づけされ目覚めたEVEが彼を埋葬し、幾万年の時を経てふたたび現れる最初の人類"ADAM"を待ち続ける、という話。"最後のADAM"によって造られた"EVE"が次の"最初のADAM"の出現を待つという構図が面白く、人間を定義づける要素としての埋葬と死者への深い哀悼、孤独という概念、「サボテン」に象徴されるモノリス、また口づけというインプリンティングによって発露する愛情の念(その功/罪、是/非はあくまで副次的)、人類滅亡した世界でどこかから来る新たな人類の可能性。等々、興味深い要素が散りばめられている。それらを根幹で支えているのは、この永い時の流れにおいて人を人たらしめるものは何か、愛する者の死に対する悲しみと孤独の概念を理解するEVEはロボットか人間か? という問い(に対する答え)である。さらに、歌詞の最後は「また来る最初のADAM/おかえりと声をかけたい」(want to ~ 構文)だが、実際の歌唱では「おかえりと声をかけた」と言い切っているように聞こえる。つまり「EVEは出会った」というふうに個人的には解釈して、かなりぐっとくる。