water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

白糸の滝/坪渕の滝[茂木町大瀬/竹原]☆☆☆

 
 外は春の雨がふって僕は部屋でひとりぼっち(ハンマー)

 とはブルーハーツが歌いましたが、今年は春の訪れが早かったせいで、すでにサニーデイ・サービスが聴こえてきそうな気配です。
 
 あの娘はお洒落して真夏の庭(恋はいつも)
 
 春をわが世の春とばかりに、夏はわが世の夏とばかりに若者たちは謳歌するのでしょう。まるで小鳥のさえずりのごとく、彼らの唇は控えめな音をしきりに立てています。外で雨が降ろうと槍が降ろうとお構いなし。ああ結構なことだ。おやんなさい、好きなだけ。誰とでも。
 気づけばつまらないただの中年になってしまった僕は、僕は部屋でひとりぼっち。小さい窓から外を眺めれば、雨に濡れた新緑が目にまぶしい。そうだ、「大切なものを失くしても、わたしはここで生きていく」とは「この世界の片隅に」予告編の言葉ですが、桜が散っても、わたしは滝を見にいく。架空の喪失感、そう現代の病理。ユーミンによってつくり出された青春とその喪失の偽記憶。本当は何も失ってはいないし、それどころか何も得ていない。戦後日本がアポリアとして抱えることになった空白、そのVR(仮想現実)的な重みに耐えかね、僕は「滝を見にいく」というAR(拡張現実)に逃げ込むことにしたのであった。といってもちょっとばかり拡張するだけなので、近場の、そういやしばらくご無沙汰してたなあ。という滝へ。ちょうど天気の悪い日こそ、しっとりとした新緑と滝の姿を写真におさめることができるだろう。
 
 茂木町の中心部より北に位置する鎌倉山は、切り立った東側崖の直下に那珂川が流れ、秋口の早朝には見事な雲海が見られることで有名で、世界各地から名だたるフォトグラファーたちが競い合って集結するのはもちろんご存知ですよね。

 
 その鎌倉山への登山口に滝が流れていることも、結構知られています。が、写真で見た限りどうということもなさそうな滝で、写真を載せているHPやブログを拝見しても微妙な手ごたえ、大したことない滝である。という感じなので、わざわざ見に行かなくてもいいや。と思っていました。それをふと思い出し、どんなもんかと気になって行ってみたんですが、いや予想に反してなかなかのもんじゃないですか。

白 糸 の 滝

 
 落差は最上部の落ち口からなら15mくらいはありそう。水量はさほどでなく岩盤の上を白く糸を引くように薄く流れ落ちるのが名前の由来でしょうが、こういった滝は結構多いですね。滝の写真に人工物を入れるのはあまり好きじゃないんですが、最上部の橋もこうして見るとなかなか味があって良い。周辺ではウワミズザクラ?がもうすぐ白い花を開かせそうです。
 水質は決して良くはなく、また釜には不自然に石と砂利が盛られていて(大雨時の水対策だろう)、撮影のアングルは限られていますが、思っていたよりも雰囲気は良い。


 
*  *  *

 すっかり気を良くして、次はもともと目的地にしていた「坪渕の滝」へ。
 この滝は地元の有志の方たちが熱心に整備をしており、幽谷の趣を漂わせつつも気軽に見に行ける滝です。夏には滝を借景にしてあじさいを眺めたり、急な階段を下りて谷に至れば、滝身と浅瀬を間近に楽しむことができる。ただし農業用水として利用されている沢の水なので水質は良くありません。そして里にきわめて近く、滝のすぐ上には人家が見える。福島の達沢不動滝みたいに広角で撮るのも良いのですが、なるたけ人工物を入れたくない僕にとっては、ベストアングルを探すのにわりと苦労する滝でもあります。
 なので今回は望遠レンズでいい感じのところを切り取ってみました。


坪 渕 の 滝



 こっち側からだと広角レンズが使える。滝身は末広がりの幅広なんですね。水の色がいやあ、神秘…笑
 もう少し水量が多くなると、迫力のある滝を見ることができます。秋の紅葉もカエデがよく色づいて綺麗ですよ。
 
*  *  *
 
 戦時中も人は恋をしたんだろうか。戦争を知らない子供たちは恋をしたんだろうか。20世紀を知らない子供たちは恋をしているんだろうか。何でもないようなことをささやき合い、その声が近づくにつれてなぜ若者たちは唇を重ねることを知ったのだろうか。何か、緑内障を発症したときのように、視野が欠損している。何かが欠落しているのを感じる。その欠落すらも偽の記憶なのだろうか。僕は滝行でもして心を空っぽにしなければならないのだろうか。これ以上何を空っぽにするというのか。