water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

しどけとその不確かな味

 今年はあまりに季節の進行が速く(気づいたら既に越代の桜https://water-sky.hatenablog.jp/entry/2022/05/11/044127すらも散ってしまっていた)、ならば山菜も早めに出ているだろうと思い、山に分け入ってきました。ねらいは、しどけ。知ってます? しどけ。僕は知らなかったです。毎年タラノメ(たらぼ)はポキッと採ってよく食べてるんですが(何年か前に「ふかし」をしたこともある。早春にタラノメの木を同じ長さになるよう何本かに分けて伐って発泡スチロールの箱に詰め、そこに水を浸して暖かい場所で春まで置いて待つ。すると伐った木片の両端から芽が出てきてむっちゃ採れる)、今年は自分でコシアブラを採りたいと思い、何度か山を回って様子を見ていたのです。しかし話には「あっこらへんにコシアブラがある」みたいな話は聞くんですがどうにも見つからない。それでYouTubeの動画を観てコツを探っている時に、しどけの存在を知ったのでした。知っとけ、しどけ

 なんでも“山菜の王様”とも言われるそうで、その独特の苦みがくせになること請け合い、とのこと。葉っぱの形がもみじに似ていることから「モミジガサ」という名があるそうです。葉っぱが青々として、何だかおいしそう。さっそく山へ向かってみました。

 とはいえそうそう簡単に見つかるわけもなく、しどけどころかタラノメもコシアブラも見つからない(見つかるはウルシばかりなり)。おそらくそこらの里山では無かろうと思い、結構な山の方へやって来ました。廃道となった林道を辿ってみたりしてだいぶ上まで登ってみたものの、特に何もなく… せっかく見つけたイワウチワの群生も、カメラを持ってきてなかったので撮れず、申し訳程度にコゴミを採って、と期待を下回る収穫に少しさびしい。

 しかし、とある場所を見た時にピンときて、ちょっと沢へと入っていくと、何と斜面にしどけが!! 本当に生えていてびっくり。数はそれほどでもなく、あまり大きい個体もないので、慎重に選びながら頂いていく。

 片手に収まるほどの量ですがかなり満足して、穏やかな沢を気のまま登っていくと… 何と目の前にしどけの群生を発見!!

 ネ… 見るからにおいしそうでしょ?(味知らんけど) 先ほどの斜面にあったしどけとは違い、こちらのしどけは葉もしっかり伸びていて茎も太い。

 沢の対岸には全長5メートルほどの滝がありました。2段になっており、濡れるのが嫌で近づかなかったものの、遡行は楽そうだ。この上に何があるのだろう。しどけの大群生だろうか。

 気持ちの良い沢歩きとしどけ採りを満喫できました。

 

 

 ついに ねんがんの しどけ を てにいれた!

 

 而してそのお味は?

 帰ってから急いで湯通しして、さっそくお浸しにして頂いてみました。

 

 しどけ、おいしくない…

 

 何だ、このクセのある苦みとつるんとした食感のミスマッチは? しどけのおいしさが理解(わか)れば山菜通、という触れ込みも見たので意気揚々と食したのですが、どうも自分はその域には全然達していなかったようです。

 しかし、後になって茎のみずみずしいつるんとした食感と独特の苦みを思い出すと、あれが春の味かと妙になつかしい感じがして、食べている時よりも後でまた欲しくなる、そのあたりがやみつきになる山菜なのかな、と思いました。そんな感じの女っているよね。俺は知らんけど。まあ、食っとけ、しどけ

 今回、しどけともうひとつ、アイコと呼ばれる山菜も探していたのですが、こちらはさすがに見つけられませんでした。しどけは独特の苦みがあったけれど、アイコ(ミヤマイラクサ、というのが正式名称らしい)にはクセがなくまさにおいしいそう。福島の道の駅なんかで売られてもいるようなので、覗いてみたい。

 

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 村上春樹「街とその不確かな壁」読了。

 彼は社会をひとつのシステムと見做し、それが人と合目的的に融合し肥大してゆくさまを、その社会が駆動するための重大なひとつの力の源としての悪を提示し、その社会=システムに適合できずにすり潰されていく人々、あるいは社会=システムの周縁で必死に自らを守りながら寡黙に対峙する人々との対比を一貫して描出してきた(「やれやれ」に代表される、大量に生み出される村上春樹ミームクリシェは、そうしたか弱き人々が社会=システムに対抗し自分を防衛するためのささやかなる武器でありツールなのだ。それが社会の側にあっけなく奪われ、村上春樹を論じるときの嘲笑に利用されるのは、社会が自らへの批評を無自覚無批判に取り込んで肥大化していくさまをまさに映す点でグロテスクである)。

 今回の作品では悪の存在は後退し、かわりに強固な文字通りの障壁となって街を守る壁をめぐる話だ。この作品での社会=システムとは、強固に何かを守りかつ束縛する人の内面性そのものであると言えるだろう(この作品が実質的に「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終り」をそっくりそのまま抜き出した続編であることを考えれば、それは自明のことかもしれない)。壁とは、街の内部に内外から干渉があった場合に機能する防衛機制のようなものだ。必然的に、街が壁の存在を要請する。つまり有り体には、主人公の心を守るA.T.フィールドのようなものと理解される。

 ところが中盤以降登場する図書館の少年と主人公の関係性から、街と壁の機能が変化を遂げる。強固に壁をめぐらしその中で完結した街を大切に守ってきた主人公と風変わりだが図書館を愛する心優しき壮年男性と一心不乱に本を読み知識を吸収し続ける無口な少年、この三者の邂逅がこの作品のひとつの軸となるが、率直に言えば彼らは血縁関係に依らず魂を継承する物語を紡ぎ出す。子易氏が主人公に己の影を、そして主人公が少年に街と図書館を、継承する。街とその不確かな壁はそこに永久にとどまるものでもなくあるいは放逐されるものでもなく、代わりに他者を容れる器となったのだった。

 疑似的な父子関係を描くことと村上春樹の境遇に強い関連性があることは否定のしようがないところで、そのテーマ性は現代社会と強くリンクするものがある。映画「この世界の片隅に」のラストシーンでは主人公すずと夫の周作が、焼け野原となった広島の街で女の子と出会う。女の子はすずの失われた右手に母親の面影を見つけ、彼女に懐くことで、家に連れて帰ることに決める。ここでの失われた右手が、街と図書館の機能と同一だ。街というシステムが、その存在ゆえに他者に開かれる可能性が示されるだろう。

 そこにおいて壁とはまさに心の壁であり、同時に心の裂け目、傷である。トラウマとして強固に内側を守る外殻が、破るものでもなく越えるものでもない、可変的なものであり得るのを、この作品は示す。壁と街は超克すべき存在ではなく、継承されるものだ、システム=社会において。それがいかになされるか、あるいは十全に果たされ得るものなのか、という課題に著者の関心がシフトしているかのような感覚を覚えた。

 個人的には、その課題と向き合うには達しておらず、この後に読んだ(今まで読んでいなかったのだ)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」により強い感銘を受けた。個人的な問題意識が今になってもこのあたりにペッグされているような、だからこそ行き場のない閉塞感とともに受容された。「街とその不確かな壁」には発売日に村上作品を購入するのは初めてというほど期待をした。何せあの「世界の終り」の続編だから。だが、というか何というか、街にいた女の子の存在は、グレイプバインの「She Comes (in colors)」や「エレウテリア」に近い。渇望する対象は認識されるが、対象それ自体は退潮している。「何もない世界でそこだけ虹色の夢見ていたのにもう思い出せないのかも」

 

 当初、このエントリは「命短ししどけよ乙女」というタイトルの予定でした。特に意味はないです。