water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

井白の泉[石岡市小屋]☆☆☆+この世界の(さらにいくつもの)片隅にの感想

 のろのろと走る車に多少いらつきながらフルーツラインの長い直線道路をじりじり南下していくと、左手に忽然と現れるのがこの「井白の泉」である。

f:id:water_sky:20191224171038j:plain
井白の泉[石岡市小屋]

 果樹園売店の隣に何台か車が停まっているので、すわ湧き水?と目を向けてみると本当に湧き水だったので驚いた。事前に何らの情報も持っていなかったが、こういった湧き水との偶然の出合いは得難いものである。

 

f:id:water_sky:20191224171323j:plain

 水場は竹で組んだ柵に囲われており、そこから石段を少し下りた先の断面部から水が湧出していた。水量は豊富とはいえないが、おそらく筑波山系で涵養された水であろう、こんこんと湧き出している。

f:id:water_sky:20191224171911j:plain

  本当でしょうか。本当です。

 こんな感じで、サラッと湧き水紹介は終り。何せたまたま通りがかりに発見したもので、ポリタンクはおろかペットボトルさえ持っていなかった。それに、冒頭申し上げた通り、私は多少いらついていた。それは後続車を顧みることなくマイペースで走る先行車の身勝手さにいらいらしていたこともあるが、映画の上映時間に間に合わないかも、というこちらも負けじと身勝手な都合があったためである。その映画とは「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」であるのだが、簡単に印象に残ったところを記しておきたい。

 

 *   *  *     * *  *    *   

 

 この日が公開初日ということで、前作「この世界の片隅に」の1035日連続上映を続け"聖地"のひとつとなった土浦セントラルシネマズは、封切りを待ちかねた観客でごった返すんじゃないかね、監督のサイン会の時みたいに長い列ができて入場券も買えなかったらどうするね、ほんでここはどこねいったい~(石岡市小屋あたり)。と一人焦っていたわけだが、いざ入館してみれば全く入っていないとは勿論いわないがいつもより結構多い。くらいの人で、かえってゆったり観ることができたのでよかった。

 今作は前作のうちで予算等の問題で描き切れなかった部分を新たに補完することで、前作の場面が別の意味をもち全く新しいものとして受容できるような造りになっている。というのが触れ込みだったが、原作を読んでいる人なら多少なりとも感じたかもしれないが、個人的には「ようやく」という感慨が強かった。「全く新しい作品」よりはやはり「完全版」という思いだ。

 

(ここから多少ネタバレ入ります、原作を読んでいない方は特に)

 

 その中でもっとも注目したのは、終盤で周作が広島へと向かうあのシーンだ。前作では白木リンをめぐるストーリーをオミットせざるを得なかった事情から”重大な改変"が行われていた。今作、原作に忠実となった台詞が周作から放たれた瞬間、館内では「オオッ…」と声にならないざわめきが起こった。

 その内容とは、周作がすずに二葉館に行け。と言うもの。つまり周作が"ひみつ"を暴露する瞬間だ。戦争、そしてヒューマンドラマを扱った作品ということで、その評価はこと日本においては予定調和になりがちだが、その中においてもっとも対極的でスリリングな瞬間である。

 ここで描かれる周作は、その他の場面とは異なる表情で冷たく、苛立ちも見せ、すずに対しまるで他人であるかのような振る舞いをする。ここに夫婦の関係性が端的に現れている。夫婦とは他者同士の寄り合わせだという事実がむき出しになる瞬間だ。その事実と向き合うこと、その事実を共有することが夫婦の関係性の本質であり、それにまつわるひりひりした各人の思いが"ひみつ"の存在に集約されている(補助線として夏目漱石の「こころ」などが引かれるかと思うが、私にはそれと絡めて言及できる能力がない)。

 また、新しく補完されたシーンのうち、かなり印象的なものが幾つかあるが、その中でもすずと周作の夜の場面と小林夫妻の食卓の会話は観る者に何かしらの「違和」を感じさせると思う。それは新たに追加したことからくるテンションの違い、ということではなく、そこに他者性が生まれるという意味合いにおいてである。前者は(すずが小声で「ダメ…」とつぶやき周作の腕をしがみつくようにさする場面はかなりエロティック)二人の夜の不和を描くことで、前作が持っていたやわらかで充足した円環に見事なくさびを打ちつけた。エロティックに描くこともその意味で必然性があり、ここにひとつの「作品世界に対する」違和が生まれる。後者では、あくまで脇役に過ぎなかった小林夫妻の会話をはさむことで、物語に突如奥行きが発生する。ここでは周作と白木リンの関係性を説明する部分が担われているので余計かと思わなくもないのだが、この場面がまたエロティックなのだ。まるで別の映画を観ているのかと錯誤するほど、この二つのシーンは印象的だ。(小林夫妻のシーンは評価が難しいとも思う。これはのちに誰かが言及するかもしれない。もしかすると、全体のバランスを損ねているという評価も出てくるかもしれない)。また後半の知多さんのシーンもかなりスローな動きで展開されており、それが異様なまでの静謐と緊張感を孕む。のんの声のあて方なども秀逸なのだが、一貫して死の香りが放たれている。

 これらは全て映画「この世界の片隅に」という作品に不可解なまでの違和感を付与した。おそらく本質的にはそれが「さらにいくつもの」に当たる。先ほど言及した夫婦の関係性とつながるのだが、他者性は違和感と不可解さを伴って訪れる。それが他者=世界とかかわることの困難であり、こと夫婦の関係性においてもっとも試される部分であろう。

 それと対照的に描かれるのが、最終盤に訪れる子どもとの出会いだ。彼女が母親の傷ついた右腕を想起して、失われたすずの右腕にしがみつく場面は何度観ても涙を禁じ得ない(ここでは補助線として映画「エクソシスト」のラストで女の子が新しくやってきた神父に抱きつくシーンが容易に想起されよう。あのシーンも泣けて仕方ない)。ここでは、誰かを眼差すとき"面影"が他者に宿ることを説明する。観客はこの子に晴美の姿を重ねないわけにいかないだろう。さらに言えば白木リンとすずの妹すみは作画上の限界という説明ではし切れないほど似ており(前作の初見では誰が誰だか分からなかった)、もしかすると原作者の無意識が作用すらしているかもしれないのである。これは何も映画の中だけの話ではなく、私たちは他者を眼差すときに何らかの面影を彼/彼女に投影する。私たちが連綿と世界をつないできたことのひとつの意味がそこにある。

 最後に、この作品が現代において持つ意味を考えるに、もはや「反戦」の映画として観ることの無意味さ(というかさして重要ではない)を思う。それは副次的に作品内で描かれている、呉市空爆後の焼け跡が言うまでもないが東日本大震災を思わせること、また「さらにいくつもの」で追加された、戦後の台風のシーンはこれまた言うまでもないことで、(あくまで日本が経験した)戦争を知らない私たちはイデオロギー(あえてそう言おう)として語られる戦争の悲惨さではなく、肌で感じた災害や悲劇を知っているからである。むしろ戦禍から人々はどう立ち直ってきたか。ということの読み替えとして、現代の私たちがそれらの災禍からどう立ち直っていくか。ということが問われている。そこに実は逆説的だが「戦争」の意味が立ち上ってきて、つまり私たちは過去をどう乗り越えていくべきなのか。ということが問われる。反戦イデオロギーは戦後日本の平和の象徴としてその絶対的な正義の地位を保証されてきたが、実はその時代を生きた人々の過去を抑圧してしまってもいた。「この世界の片隅に」はそれを解放した、と私は思っている。戦争をはじめとする忌まわしい過去の記憶、それらを否定するのではなしに乗り越える、あるいはそれらも含めて受け入れ、今の自分が生きていることを肯定する道筋を、この作品は示した。

 もうひとつ。すずと周作が広島で出会った子を家に連れて帰り家族に見せる際、周作は頭に手をやり照れた表情を見せる。自分の子供ではないのに、である。ここに親子の関係性が端的に現れている。親子の要件においては、血のつながりがあることを、この子を育てるという決意が上回る。ということだ。血縁関係はある種の呪いでもあり、他者性の排除の先に救いようのない悲劇が待っていることは、今の社会を見れば一目瞭然でもある。これの解呪の可能性が、他者との関係性のうちに導かれる。他者とかかわり合いながら生きていることを、忌まわしい過去ややりきれない悲しみの中から出た芽のように寿いでいるのが、この「この世界の片隅に」という作品だ。

 

   *  *  *  *  *

 

  ところで今日はクリスマス・イヴなんですね。私は先日行われた有馬記念、本命サートゥルナーリアでした。これはサートゥルナーリアがクリスマスの元型(厳密にはそうではないそうですが)に当たる祭の名であるということもありましたが、サートゥルナーリアが古代ローマ神話における農耕の神サトゥルヌスを崇め奉る祭であることに着目し、今年2019年は台風をはじめとする数多くの災害によって農作物に多大なる被害が出た、よってサトゥルヌスを崇めよ、サートゥルナーリア本命。となったのでした。まあいわゆるサイン馬券です。当日のパドックと返し馬はリラックスし切っていてすごく良く見えたんですよね。相手はリスグラシューかなーと思ってもいたのですが、2、3番人気では旨味が少ないなと欲張ってしまい、まさかの外れ。

 

 アーモンドアイは坂で止まる気がすると思ったんならバッサリ切るべきだった。まあ仕方ない。これも競馬。それにしても今年の有馬は牝馬三者三様でしたね(ごめんクロコスミア)。アエロリットが敢然とケレンみのないハイペースの逃げを打った時には震えました。かっこいいよアエロリット、かっこいいよ津村! 4角でもうスタミナ切れだったけど、最後に彼女らしいレースを見せてくれてよかった。

 

 それでは最後に私のつくったクリスマスの曲をお聴きください。聴かなくても勿論結構です笑 テーマは「こごえる夜に猫がひとりで震えながら眠っているのは全部人間のせいだ(本当は僕のせいだ)」です。精神的にだいぶ参っている時期につくった曲ですね笑 メリークリスマス。

soundcloud.com