water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

two shrines and two springs#2:大井戸[常陸大宮市門井]☆

 
 ごきげんよう。こちらは前回「two shrines and two springs#1:竜光水」の続きです。
 では、単刀直入に次のリンク先の文書をご参照ください。

http://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1424836841_doc_1_6.pdf

 上のリンクからは、常陸大宮市の広報・平成27(2015)年2月号の17ページ目がPDF化されたものを見ることができます。
 そこで書かれているのは何と、「水戸市飯富町の大井神社と常陸大宮市(旧御前山村)門井の鹿島神社はその昔、水戸藩江戸幕府)の命によって交換させられた」というショッキングな内容でした。

 いったいどういうことでしょうか。



暗い森の中で黒光りする柱が印象的な大井神社。徳川光圀など水戸藩から崇敬を受けたが…

 飯富の大井神社は御祭神に建借間命(たけかしまのみこと)を奉っています。この建借間命は第十代崇神天皇の時代に、大和朝廷が肥の国(現在の佐賀・熊本)から派遣した人で、この地(那賀・仲)にはびこる賊をすっかり平定し初代仲国造となる人です。その際にこの地に社殿を創建し天照大神を奉ったのが大井神社のはじまりとされ、のち奈良時代に当時の那珂郡(那賀郡)で有力者であった宇治部氏が建借間命を奉り、現在へと受け継がれているようです。平安時代(927年)に完成した延喜式神名帳では「那賀郡 大井神社」として名を連ねている、歴史の深い神社なわけです。
 そんな大井神社と御前山の神社がなんで関係あるのけ?と思ってしまいますが、偶然上のPDFにたどり着いた私は「すわっ」と驚き、さっそく彼の地・門井へと向かったのです。そこで現地の方にお話を聞き、このふたつの神社の変遷が常陸国式内社の歴史を覆す重大事実をあばき出す可能性に行き着いたのです(周回遅れで)。

 現地の方からお話を伺った上でのキーポイントは、すべては江戸時代に端を発している。ということです。つまりそこには江戸幕府の御三家・水戸藩が行った幕藩体制確立のための支配統治がからんでくるのです。

 この門井という地は江戸時代には「門井村」という名でしたが、それ以前より(上のPDFの通り)古代から「大井戸」とよばれる湧き水が存在し、おそらくそこから「大井村」と名乗っていたというのです。そしてまさに、井戸の上という地に神社が存在し、その神社が「大井神社」と呼ばれていた、というのです。ここで江戸時代以前を考えるに、ここら一帯は佐竹藩がその支配下に治めていました。そして井戸の上地区は、現在にもつながる、六、七の苗字(I、Yなど)の家々が戦の際には馬に乗って佐竹藩のために駆け付ける精鋭部隊を形成する集落だったというのです。つまり江戸幕府からすれば、敵方。現地の方によれば、江戸時代に行われた測量などの資料に当たると、北方にある那賀村(1889年廃藩置県によって小瀬村として合併された村と思われる)と南方の野口平村(同じく廃藩置県により野口村として合併)に挟まれた当村(つまり門井村-大井村?)は、すっぽり抜け落ちて記載がないのだとのこと。そして時代が下るうちにいつの間にか「門井村」と村名が確定していて、大井村から門井村に名前が変わった経緯について一切明らかではないのだそう。
 茨城縣神社誌を当たってみると、確かに「門井村はもと大井村と云ひ中世今の名に改めた」とあります。そして「元禄四年二月二十八日光圀公の命で大井明神を鹿島明神と改めた」とも。確かにこの地に大井村が存在し、大井神社はあったのです!
 



門井・鹿島神社境内。以前は秋には黄葉したイチョウの葉で一面が埋もれるほどだった。現在もイチョウの大樹は残っているが枝は剪定されている

 ここで、ひとつの類推を導き出すことができます。江戸時代以前よりこの地は大井神社を中心とした地縁の強いコミュニティが形成されており、幕府=水戸藩は敵方・佐竹藩の支配下にあった彼らの処遇に手を焼いた。その対処方法として、寺社整理の一環ということで、自分たちが崇拝する鹿島神社(その出自は、敵へ兵を送るための前線基地)を当地に置くことで支配力を高めようとした。結果、それまであった大井神社は移され、さらに神社の位置そのものが現在の門井の地へと遷座させられた。さらに村の名前までも大井村から、鹿島神宮宮司を務めていた「門井」氏に、字面の類似から変更させられた(これは本当に当て推量。一応「名字由来.net」に門井姓について記載あり)。

 しかし、なぜ大井神社を廃したのでなくわざわざ移したのでしょう。
 建借間命は肥の国の意富臣(おふのおみ)という一族の人で、これが訛って「おおい」となった、あるいは大井神社境内の御由緒には、もとは「意富比(おほひ)」神社と呼ばれており、これが「大井」に変わったという説明もされており、偶然なのか何なのか門井の大井と字面的に一致するということがひとつあります。さらには、建借間命が国造となった仲=那賀という国(郡)の領域は今だもってはっきりとしないそうです。ならば、大井村の北にあった那賀村を中心に、建借間命の末裔が勢力圏を張っていてもおかしくはない。その一族が水戸藩の指図・方針に対して交換条件を出したのではないか。
 もうひとつ、水戸市愛宕山古墳がありますがこの古墳が建借間命の墓ではないかといわれており、その意味で言うなら現在の大井神社の位置には不自然さはないのですが、何とこの神社、以前は鹿島神社だったそうなのです。「交換」の意味はここに込められています。つまり、門井の大井神社を現在の大井神社に移(し、そこにあった鹿島神社を門井に移)せば、名実共に「大井神社」の本懐が成就する。水戸藩のメリットとしては、神社という地縁のシンボルを取っ払い新しく自分たちの崇拝する神社を置くことができて支配体制を強めることができる。門井=大井側のメリットは、廃社でなく遷座の形にし、しかも藩に交換条件をのませたことで体面が保たれる。ああよかった。



門井の大井戸。地元の人は「お井戸」と呼ぶそうだ。そして彼岸のお祭りには今も「大井大明神」と書かれた旗が立つという

 しかし、ここで奇妙なねじれが生じているのです。じゃあそもそも、現在の大井神社は何なの? それに対する説明はこうです。御祭神である建借間命と、鹿島神宮武甕槌命(たけみかづちのみこと)が似ていることから、いつしか混同されるようになった。しかしそれなら、現在の御祭神は武甕槌命じゃないの? いやそれはだから、門井=大井から大井神社を移してきたから、建借間命でいいんだよ。ん? では、移す前の門井=大井の大井神社には、何が奉られていたのだろうか。
 先ほど、こう言いました。「仲=那賀という国(郡)の領域は今だもってはっきりとしない」…ならば、結論はこうなります。

 そもそも、延喜式神名帳に記載されている「大井神社」とは、門井=大井にあった「大井神社」のことではないのか?

 飯富の大井神社は、名前としては延喜式神名帳に記載されていますが、あくまで式内論社なのです。つまり「ここが延喜式神名帳に書かれている神社だっぺな。たぶん」というものなんです。ほかに笠間市の大井神社も、式内論社として挙げられているのです。この中に、今は失われた門井=大井の大井神社が含まれているのではないか。そして本当は、門井=大井の大井神社こそ大井神社なのだ。
 上のPDFの末尾には「門井に大井神社があったことは口止めされている、との噂」という奇妙な一文が書かれています。また、現地の方とのお話の中でも感じたニュアンスとして「未だに江戸時代の空気というか、支配体制のようなものは残っているから、あまり大きな声では言えない…」といった、単なる修辞では済まないような土地に染みついた深いしがらみのようなものが、この一件にはまとわりついているように思えます。門井=大井の土地の歴史そのものが飯富に移ってしまったかのような、ただそれを秘密にする必要があるのか。一種の土地や財産に関する密約でもあったのか…。
 ただ、そう考え始めると不自然な点も出てきます。やはり社自体は飯富にあり、その後那賀国造が拠点を北上するにしたがって重要性が薄れ、そのうちに鹿島神社と混同したが、中世になってそのルーツを取り戻し(その実は大井神社のいわば"再勧請"のようなことが行われていた)現在に至る。
 



湧き水をためる池の中にはコイが数匹放されている。「毒でも入れられたら大変だから(カナリア)」とのことだが、水は清澄さを保っている…が、そばのイチョウの木から大量のギンナンが落ち込んでいるので、さすがに口に含んでみる気にはなれない
 
 …と、ここまでで私なりの「大井神社考」は手詰まり。手元に何らの資料もないわけで、これ以上の追求も不可能となりました。
 現在では、門井=大井の大井神社があったとされる場所は特定できず、「井戸の上」という地名が残るのみです(ただ、古文書か何かの中に、大井戸とさらにその奥にある山(大井戸の水源であると思われる)を背にして神社があるというような手描きの図が存在している。可能性を探れるとしたら、その山中に何かしら遺構がないかどうか)。現地の人が仰るには、豊臣秀吉時代の太閤検地や、佐竹藩の文書の中に、"大井村"の痕跡を見つけることができれば…ということでしたが、今後も折に触れて個人的に探ってみたいと思っています。

 なお、この文章は「茨城縣神社誌」「ふるさとの史跡を探る(2) 御前山村教育委員会」「広報常陸大宮 平成27年2月号 ふるさと見て歩き第98回」と現地のお父さんのお話、以上を参考にして書きました。学術的な信憑性・価値については全く担保しておりません。あしからずご了承ください。当ブログは恥の書き散らしの湧き水ブログでございますゆえ…
 



この大井戸(お井戸)は3段に区画が区切られていて、昔は1段目が飲み水、2段目が衣類の洗濯や野菜を洗う、3段目が鍬などの農具の掃除、に利用していたそう。現在では飲用まではしていないが、近隣の家の軒先まで通して利用しているとのこと