water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

塙不動尊の湧き水[水戸市飯富町]☆

 水戸市の北東部では、那珂川によって形成された河岸段丘の線上に多くの湧水点が存在していますが、ある日その段丘の北端部に車が差し掛かり、何となしに地図を開いてみたところ、すぐ下を流れる藤井川に向かって落ち込む丘の斜面に広がる森の中に「塙不動尊という文字を発見、即座にミズクミストとしての私の嗅覚が「これは"湧き場"!」と反応し、すわ急行。と相成りました。

 点在する民家の間の細い道に分け入り、わずかなスペースに車をねじ込むと、すぐにそれらしい進入点を見つけます。道は細いがよく踏み固められており、付近の住民の方が普段からよく手入れをしているといった印象。森の中にあって薄暗さはあるものの、気味の悪さは感じません。ちょっと歩くとやはり手入れされている竹林が見えてきます。

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 そして竹林の道は崖を回り込むように下っていき、下をのぞき込むと… ビンゴ! 不動尊とおぼしき堂宇と、泉が見えました。

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 下まで降りてみると、水だ!水が流れている!塙不動尊には湧き水が存在していた!

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不動尊の湧き水

 木の樋を渡し、崖の斜面から染み出る水を通しているようです。崖は粘土質で残念ながら水量はほとんどなくチョロチョロ…とバケツに垂れている程度。これでは口に含むのもためらわれます。残念ながら飲用には適さないでしょう。

 まるでウルシの木のように崖に削った跡が残るのは、泉に水が溜まりやすくするための工夫でしょうか。他には堂宇とお地蔵さま。「宝永五…」などと彫られているように見える。

 そこからさらに下ると藤井川までたどり着きそうですが、それとおぼしき道形はさすがに荒れていました。昔は下の集落からも川を渡って、ここまで上ってきていたのかもしれません。

 偶然見つけた塙不動尊。人里からそう遠くない場所ですが、竹林に囲まれた静謐の泉のひっそりとした雰囲気に、すがすがしさを感じることができるでしょう。

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(2019.05訪問) 

 

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 まずはこちらをご覧いただきたい。

 「電脳コイル」というアニメ作品なのだが、ほとんど利用したことがなく惰性で続けているだけのAmazon Primeで、たまたま画面を眺めてみた時にリストの中にあった。すぐれた作品との出合いは得てしてそういうものだが、一見して分かる通り子どもが主役でどうやらNHKで放送されたもののようで、オープニングのシリアスさもたぶんブラフ(はったり)だろうなーと思ってさほど期待せず観始めた。
 現代(放送時2007年)より少し先の未来、今よりもさらにインターネットの技術が進み、子どもたちは「電脳メガネ」というウェアラブルコンピューターを装着して常時ネットに接続、そこからさまざまな情報を得たり、電脳世界で"探偵"をしたりと大人顔負けの技術を駆使した遊びが定着しているのだった。その技術を行政が最大限にインフラ整備している大黒市に主人公・小此木優子が引っ越してくるところから物語が始まる。そこで起こる奇妙な事件や謎の少女・天沢勇子との出会いが、優子自身が忘れてしまっていた幼い頃の記憶と電脳世界の秘密へと近づけていく。
 という触れ込みなのだが、端的に言えばこの物語はネットと人の心に共通する"つながり"を描いていると言える。子どもたちのドタバタ活劇から一転して怒濤の展開になる終盤では、優子と勇子の"つながり"について、ネットの仮想空間を介して深く掘り下げられていく。あたかもその空間がユングの提唱した集合的無意識であるかのように、優子と勇子の心は彷徨し、交錯し、激しくぶつかり合う。
 ここではふたりの関係性にとどまらず、なぜ相手のことが気になるのか、あるいは気に入らないのかという子ども同士の相性やいじめの問題にまで踏み込んだ内容が無意識の領域を描くことで示唆されていることが重要だ。ここを理解できなければ、子どもの問題は解き明かせないと言ってよい。
 もうひとつの軸として"記憶"が描かれていることも見逃せない。いわゆる「懐かしい・どこかで見たような光景」というもので、子どもの頃から私たちが抱いてきたノスタルジックな心象の起因する場所の描出に、この作品は挑んでいるのだと言えよう。
 そもそもオープニングの姉妹のシーンからして「となりのトトロ」のまるまるオマージュなのだ。優子の妹・京子の天真爛漫さはそのままメイの引き写しである(やがて現れる電脳ペットはそのまままっくろくろすけである)。京子を演じているのが言わずと知れたクレヨンしんちゃんしんのすけ役の矢島晶子であり、これも非常に大きな補助線となって作品を横断する。そう、つまりこの作品で私たちは、京子の成長を通してメイの成長を(と、あるいはしんのすけの成長をも)目の当たりにすることになるのである。子どもという存在が内在的にいかなる世界を抱え、あるいはもがき苦しみながらこの世界に表出しているのか、あらためて思い至らされることになる。多少のネタバレだが、エンディングで京子が無言のまま頷くのは、重い。矢島晶子をして、声を当てずにその意味が重く響いてくるのだ。
 矢島晶子は言うまでもないが、この作品は声優陣の質が非常に高い。主人公の優子を演じる折笠富美子のうまく抑制された声で、この作品を終いまで観るに値することがほぼ一瞬で決まった。声優が優れているから作品も優れているのかはたまたその逆か、鶏と卵だが、作画・脚本のレベルも高い。あまり詳しくはないが磯光雄といえば言わずと知れた日本を代表するアニメーターの一人であろう。新世紀エヴァンゲリオンの第13話「使徒、侵入」の脚本がこの人だったと聞いて、さもありなん。と思う。