water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

大和田稲荷神社の子授け桜①[郡山市中田町木目沢]

 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。

 日本国内においても死者数が100人を超え、いよいよ複数の都府県で緊急事態宣言が出されようとしている。そんな現状を知ってか知らずか、今年の春は足早に通り過ぎていく。左を向いたら新型コロナウイルスがぶわっと増えてびっくり、右を向けば桜がぶわっと満開でびっくり、それを繰返しているうちに、あっという間に桜は散ってしまった。コロナも(日本中に)散ってしまった。

 前回からの更新にだいぶ時間がたってしまったのを何とかコロナのせいにしたかったが、だめだ。単に筆不精なだけだった。めんどうくさいだけだった。えぇと、前回はどこに行ったんだっけ… そうそう、郡山市の「五斗蒔田桜」を見に行ったのだった。そして次に紹介するのが… 筆が遅れた理由は(まあ筆の遅れはいつも通りなんですけど)、この桜をどう紹介するかずっと悩んでいたためでもある。

 五斗蒔田桜からは若干北東に位置するが、道はさらに狭く入り組み、袋小路へといざなわれている感すらある。舗装されているだけまだましとパワー不足の軽自動車を唸らせながら進んでいくと、山あいにぽっかりと開いたわずかな空間に勃然と白い花の広がりが現れた。それが今回ご紹介する「子授け桜」だ。

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子授け桜 正面から

  四方八方へと枝を伸ばした巨大なエドヒガン、その存在感に圧倒される。その幹の二又になった部分に上り、祈願すれば子宝に恵まれるとの言い伝えから名前が付いたようだ。樹齢は定かではないが、200年を超えるくらいではないかとする説が多いが、あるHPでは500年としているものも。それも頷けるような威容ではある。

 この日は先客がおり、挨拶してみると関東方面から電車で福島の桜巡りをしているのだそうだ。適当な駅で下り、折りたたみ自転車を駆って付近の桜を見て回るのだ。何て贅沢な旅。この後は会津若松・坂下方面へ行かれるとのことだった。

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子授け桜 ちょい左から 先客の自転車が写っている

 その方と話していたのが、「この桜はちょっと人には教えたくないねえ」ということ。僕が漠然と抱いていた「みちのくの桜」のイメージに、まさにぴったりなのだ。人里から少し離れたところに超然とそびえその存在感を思うままに振りまくものの、全体としては極めて静かな佇まい。空間を支配しながらも空間に隷属する、崇高な領域の中心核にあってもっとも卑近な存在。そんな、夜の闇の中で艶やかな光を帯びながらうごめく女のような桜を、僕は公開するのがためらわれていた。この手によって世界に解き放ってしまうことを、僕は恐れた。だがインターネット時代、すでに情報は豊富に公開されていた。賽はすでに誰かの手によって投げられていたのだ。その手が僕のものであったらよかったのに。だがもう遅い。この写真にしたってすでに1年前のものなのだ。僕は失われた破瓜を見つめるような思いで、いま満を持して公開する。

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子授け桜 ちょい右から

 その美しい花の広がりは、なまめかしく伸びた枝に支えられており、枝の折り重なりは奥へと闇を誘い、外側の花のきらめきとのコントラストをなしてグロテスクですらある。やはり女だ、と僕は思う。生命の神秘と秘密が、ここに凝縮されている。凝縮されつつ散逸しており、もはやここには何もない。ただ一本の桜が、曇天のもと音もなく佇んでいるのみである。

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子授け桜 遠目から

 そう、曇天。なぜこうもじめっと淫靡で陰湿な思考に陥ってしまうのか。それはこの日の天気が曇りだったからである。僕は何としても、晴れた青空をバックにこの桜を見たいと思った。そして後日、ふたたびこの桜を訪れる。続きは②で。写真のクオリティーならぬサイズばかりがでっかくなるので二つに分けますわ。

 

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 シアターブルック、不勉強ながら「TALISMAN」までしかアルバムを持っておらず聴いていなかったのですが、この動画を観て久々にぶっ飛びました。かっけー! 歌詞の寓話性、直線的な楽曲構造とサウンドに、いま自分がこの曲をこそ聴きたかったのだという気持ちを呼び起こされ非常に熱くなりました。「TALISMAN」の最後に「無実の子」という曲がありますが(サビが「町の教え/あなたに会うのが」と聞こえ、頓珍漢な僕は「これ売春の歌…?」などと勘違いしてしまった)、これも歌詞の寓話性にすぐれており、この辺りは南米の文化がはらむ呪術性にインスパイアされたものかな、なんて思いますがどうなんでしょう。